345 days

おふぃすれでぃーとして勤労に励んでいましたが、2018年8月に娘を出産。2019年9月、フルタイム復帰しばたばたと過ごしています。

word

あさべのブログからたまによそのブログをのぞくのですが、いつもすごいなあ、と感心するのです。

 

ごきげんよう。 みよコです。

 

 

おそらくみよコが知っている人と、知っているけど分からない人か、知らなくてもおそらく同じぐらいの年頃の人だと思うのだけど、こうも言葉の使い方って個性が出るのだなあ、とすごく不思議に思う。

私なんかは常々話す言葉も、書いたり打ったりする言葉も、どうも魅力に欠けてしまって、「なんだか自分が感じたことの温度が全然伝わらないなあ」と落ち込んだりもするんだけども、なんというかこういうのは日々の努力もあるにせよ、一種の才能なのだよな、と思ったりする。

確かに今までどれだけ本を読んできたか、というのも大きいと思うんだけど、では仮に私がその人たちと同じ本を読んで、同じ文章を書くようになるかと言うと、それはおそらく違うのだろうと思う。

私は川上未映子が好きで、とくにエッセイが好きで、その頭の中がごろんと出てきたような、まだ形になってないようなアメーバのような感情が、なんだかそのまま文章になっていて、その力強さに物凄く惹かれる。 これも個性。川上未映子色の文章。 私の文章に色はあるのかなあ、と考えたりもする。

どういった経緯で自分が考えたことが言葉として形になって外に出ていくのか、それを読んだ人の中でどういう風に取り込まれていくのか、ということをあまり今まで意識してこなかったのが原因なのかな、と自分なりに分析してみてはいるのです。

話はまったく変わって、私はつい先日薬師寺のお坊さんのお話を聞くという機会を頂いて、その人はわざわざ奈良から九州の片田舎の熊本までやってきてくれていたのである。

その方の話を聞くまで私は恥ずかしながら勉強不足でまったく知らなかったんだけど、 薬師寺と言うのはお寺の中でもお墓をもたない数少ないもののひとつで、だから自分の仲間が死んだら自分らでお経挙げられるから便利やなあ、と思うやろうけど実は違っていてわざわざよそから坊さんを読んできてわざわざお経をあげてもらうのよ、とその人が言っていた。

まあ、それは本筋にはまったく関係なくて。

私がその話の中で感じたのは「言葉ってすごいんだなあ」ということ。

この記事を書くときに「言葉」じゃなくって「言の葉」って英訳できるんかな、と思ったけどやっぱり"words"でしかなくて、でも私が使いたいのは「言葉」ってさらっと流れるような感じじゃなくって「言の葉」。

この感じ、ああ、ないのだな、と思った。

まあ「の」の字が入っただけのこと、と皆は言うかもしれないけど、でもニュアンスはやっぱり違うよねえ?

そのお坊さんは薬師寺に自ら入ったのはいいものの、やっぱり修業がものすごくきつくて、10年経ったら一緒に入った仲間はだれもいなくて、自分も死んじゃおうかと思ったんだって。

その時に「これは運命なんだろうか」と思って、でも「運命」ということをすごく考えたんだって。

仏教の教えの中に「分からない言葉をひたすら見て考える」というのがあるらしいんだけども、まさしくそのお坊さんはそれをして、「運命」の二文字をかいたカンペをひたすら見て、お経も唱えずに(笑)考えていたとのこと。 そこで「命」を「運ぶ」のが運命じゃん。

じゃあ、誰が運ぶの?俺じゃん。

自分の命の運転手俺じゃん、ってなったんだって。

ここで私は、ほわーと思って、なんだかよく分からんけど言葉ってすごいなあ、と思った。 お坊さんはその後も色々話していて、みんな75分間お坊さんらしからぬ様子でいきいき話すおじさんをじっと見て話を聞いていた。

別に文を書くのが生業でもあるまいし、と思う人もいるんだろうけど、私も熱のある言葉を使えたらいいのに、と思う。

思うだけはタダなので(笑)。

 

川上未映子の文章 ブログ「川上未映子の純粋悲性批判